永享12年(1440年)舂屋宗能大和尚が草創したと伝えられるこの禅刹は、
境内の至る所から霊泉が湧き出て、秘境の霊地と近郷の人々から崇められてきました。
この舂屋宗能大和尚は、相模の巨刹最乗寺に住する大網明宗に師事していました。
あるとき、遊行の一日農家で米を舂く音に忽然と大悟して、
師の大網明宗より「舂屋」の号を授かりました。
そして師のもとを離れて諸国を遊錫のとき、掛川の 地に至り身の渇きをおぼえ、
辺りの渓谷に流れる清水を掬い飲むと、あまりの美味しさに驚き
この渓上に必ず霊境があるといい流れに溯ってきました。
源流の周りは雙山競い秀れて滝の聲すらありました。
恰も一帯は中国の曹渓山に似ており 更に近くの山陰に住んでいた二人の老比丘尼は、
霊夢のお告げにより舂屋和尚が訪れてくることを既に感じていたと語りました。
こうした不思議な邂逅に感得された和尚が、
この地に庵を結んだのが法泉寺の創まりと由来されています。
この山門は御朱印門と称し、徳川家康の側室で西郷の局の両親を祀り、その菩堤を懇に弔っていたところ、家康が江戸に移封のとき側室の父ということから御位牌と共に、この法泉寺から江戸に移されました。
そして護本山天龍寺を創建し、そこに安置されたが、そのとき家康が斤で一等に刻まれた御位牌が祀られていると伝えられています。
こうした由来から、当時の寺社奉行であった伊奈備前守が、掛川城主松平隠岐守に所管をおくり、十石の御朱印と山門を寄進しました。また、西郷の局との関については、法泉寺七世の心翁永伝和尚と、西郷の局が兄妹であったところから、この法泉寺の霊地に仏縁を結ばれたと寺伝されています。
静かな法泉寺の境内も、裏山は瀑布に湧く龍泉の滝が水音を響かせています。
雄滝と雌滝が旅館を挟んであり、近くの岩窟に不動明王を安置していますが、その本地は滝の流れ落ちる岩上に古来から由来する霊祠が在り、木立に囲まれた周りは厳しい霊気が漂い、霊験あらたかな感が強くなっています。
この霊祠の創建は定かではありませんが、そばに立つ石碑には法泉寺六世と刻まれているところから、かなり昔に安置された物だと考えられます。
近年この不動明王に詣でる人が殊に多く、一願を必ず成就せしめる尊顔と篤く崇められていますが、遠江十二支霊場の西歳の主本尊でもあります。
静寂な境内の左側は小高い丘陵となり、樹木が一段と繁茂し子育て地蔵尊が奉安され、その傍らに仏法弘通の誓願をこめて、舂屋和尚にこの霊地を護られた尼僧の菩提を弔う供養碑が鎮まっている。
雲江妙慶 貞治五年(1363年)四月
梅巌花慶 応安二年(1369年)二月
の二碑は、この頃に建立されたものと伝えられ、石碑は風化して年代が一層深く感じられる。
中庭にある苔むした岩石は、往古に老比丘尼が座禅していたもので、後に比丘尼石と銘名し舂屋和尚との仏縁を物語る貴重な遺跡として今日に保存されています。
舂屋和尚がこの地に留錫のとき、手にした杖錫を地中に突き立てられたところ、そこから霊泉が湧き出たと伝えられる。
今も中庭の一隅にその泉源があり、涸れることなく恒久に湧いている。
泉質は良質のラジウムを含む硫黄泉で、神経痛、リュウマチ、皮膚病、胃腸病など万病に効果があると云われ、湯治客に親しまれている。
変哲もない周りの風情に、山家の趣を満喫するこの地は、遠く掛川の歴史を留める美人ヶ谷城の在った旧跡で、山腹には多くの石仏が散在している。
この石仏群の祭祀は定かでないが、無情に果てた人夫のものか、古来に平家落人の住まいした名残りとも伝えられている。
こうした無縁の菩提を弔うかのように、法泉寺山門の脇には石像の三十三観音像が祀られている。
茶道に欠かせない道具である茶筅は、他に替えが効かない伝統工芸品でありながら、その使われる用途の関係上消耗品でもあります。
この茶筅に感謝の意を示す目的で建立されたのが茶筅塚です。
境内にある茶筅塚では、茶筅供養が定期的に行われています。